六月に入ると、季節どおりの長雨が続いていた。
窓辺でアクアブルーの傘が揺れたと思ったとたん、見知った顔が窓から顔を出す。
「コウちゃん」
「…カノコか?何やってんだよ」
森カノコの幼馴染であり、その彼氏の桜井琉夏の兄・琥一は現在家の手伝いをして暮らしていた。実家は土建屋・桜井組を営んでおり、その手伝いをしているのだから、琥一も跡を継ぐ気なのだろう。
桜井家の隣にある職場の事務所に、ヒョコっと顔を出したカノコに琥一は驚いた顔で出迎える。
「ごめんね、仕事中?」
「いや、休憩中だ」
事務所は昼食時のせいか、皆出払っていてカレ以外の人影はなかった。
「よかった、現場出てたらどうしようって思ってたの」
気を使って昼休みごろ尋ねてきたものの、相手は土建だ、現場に出ていたら会えなかったろうと、カノコは安堵する。
「雨だしな。こういう職は雨だと開店休業だ。…昼飯食ったか?」
ナリはでかくて見た目はごついが、琥一はその言動に他人を受け入れる懐の大きさがあった。琉夏とは違う笑い方だが、人を魅了する砕けた笑みに、カノコも微笑み返す。
「まだ」
「そんじゃ食ってけよ、おふくろたち居ないし、昨日の残りのカレーで良ければな」
「わ、おばさんのカレー?超食べたい」
「食ってけ、食ってけ。まだ鍋に半分以上残ってんだ」
簡単な戸締りをして、チャリチャリといくつかのキーを吊るしたウォレットチェーンを指先で遊びながら、琥一は事務所の駐車場と桜井家の庭を横断して自宅へカノコを誘った。
「おじゃましま~す」
「適当にしてろ。よし、メシも十分ある。麦茶でいいか?」
「うん、お構いなく」
勝手知ったるとばかりに、カノコは食器棚の引き出しから、二つ分のスプーンを取り出した。高校時代何度か足を運び、おやつや夕飯をよばれていた彼女にとって、桜井家はなじみきった場所なのだ。
「どんぐらい食べる?」
「う~ん、コウちゃんの半分くらい。あ、レタスある。きゅうりもあるし簡単なサラダつくっていい?」
「あ~?客は座ってろよ」
「いいの、サラダ食べたい。コウちゃんもだよ」
世話焼きな性分は琥一もカノコもどっこいどっこいというところで、二人係りで始めた昼食の準備はあっという間に出来て、食卓に二対の食事が用意される。
「いただきます」
「おう、おかわりもあんぞ」
「は~い」
長男の意向か、はたまた家族総意なのか、桜井家のカレーはビーフカレーで、結構な量牛肉がひしめいていた。その上野菜もダイナミックに投入されていて、食べ応えがある。
「おいしい」
「まあな」
もくもくと二人食しながらも、互いの呟きに適当に相槌が打たれる。琉夏がこの場にいればもう少し騒がしいだろうが、琥一とカノコの幼馴染という関係はこんな感じだった。
どこかしらでお互いに一歩だけ距離を置いた関係。
決して冷めたものでなく、信頼から生まれた距離と言えよう。
だから琥一はカノコに琉夏を託した。
「ガッコウ慣れたか?」
「うん、結構楽しい」
「……」
こうして他愛ないやり取りをしながら、琥一は待っていた、カノコが言い出しにくい話を始めることを。
わざわざ彼女が自分を訪ねてくるなんて、きっと琉夏のことなのだろう。
高校時代、やれ友達だ親友だと言って、なかなかくっつかなかった二人に、琥一は傍で見ていて随分ヤキモキさせられたものだ。
やっと付き合いだしたものの、どこか琉夏は相変わらず上っ面ばかりヘラヘラとして見せているし、この幼馴染もポヤンとしていて、琥一は心配の種が減った気がしなかった。だからこれはいい機会に感じる。
何かを望む事は幸せになろうとしている証し。無欲げな二人が、少しでもなにかを望んでほしいのだ。
琉夏のことを相談するということは、カノコに何か変化が生じたのだろう。琥一もそれほどの恋愛経験はないし、とにかくそういった類の話は得意ではないが、琉夏に関してなら伊達に兄弟を10年近くしていない。何かしらアドバイスできるかもと、鷹揚の構えた。
「……コウちゃん」
二人のカレー皿が空になり、琥一の入れた麦茶のグラスを傾けながら一服ついた頃、カノコは口を開いた。
「ん?」
内心やっとかと思いつつ、それを表面には出さず、何気ない返事をする。
「あのね……」
「……」
「……」
少し落ち着きなさげに視線を彷徨わせていたが、グッと唇を噛むと、カノコは真剣な面持ちで琥一を見つめた。
「あの…。男の人は付き合いだした相手に、どのくらいのスパンで手を出すの?」
「……はあ?」
「えと…だから…」
予想していたような質問とかなり違っていたせいか、眉間に皺を寄せ思わず琥一は聞き返した。それにあわてて言葉を言い直さねばと焦るカノコ。
「その、う……えと…キスっとかって…いつ頃からするのかな…恋人同士って」
「……あ~……」
「あれ?変?聞き方ちがう?うんと…その…セッ…」
「いや、待てカノコ、十分判った、つまりなにか、琉夏となんもないのか」
直接的な表現をしようと、顔を赤らめながら頑張るカノコを押し止め、琥一は頭を掻きながら内容を確認する。
「うん、最近手も繋がない。高校時代の方がまだ色々触ってたなぁ…」
そういえば琉夏はスキンシップ過剰なタイプだったと思い返す。
その琉夏が……。
思わずカレンダーを見る。
六月の表示と傘と紫陽花のイラストが、今の正確な季節を示している。
「…私、恋人同士って良くわからなくて…。琉夏と一緒に居るだけですごく楽しいから、この間まで気付かなかった。…ううん、そうじゃないのかな…。見ようとしなかったのかもしれない…」
「………」
「……」
こくりと麦茶を一口飲むカノコを見ながら、琥一は考え込む。
あの琉夏が、カノコに惚れ込んでいるのは、間違いではない。
高校の卒業式を終えて帰宅した琉夏が、珍しく照れたように『カノコちゃんと付き合う』と言った。あのはにかみつつもはしゃいだ気持ちを隠せない様子を思い出す。もう少ししっかり生きたいからと家を借り、来年大学受験を決めた琉夏は、もう教室の隅っこで膝を抱えて泣いている少年の面影を消していた。
『アイツの横でいるのに、もちっとマシな人間になりたい』
そう漏らした言葉に偽りがあるとは思えない。
「…コウちゃん」
「あ、ワリィ。なんだ」
「…私ね。琉夏の前カノ知ってるんだ」
「は?前カノだぁ?」
「うん」
またしても衝撃の告白に、琥一は目を剥く。そりゃあ、やんちゃしまくった中学時代、どこから連れてきたのか、よくわからん頭の悪そうな女が琉夏について廻っていたり、あきらかにやばそうな躁状態の女が、小遣いを与えていたりしたが、彼女らしきものはまったくと言っていいほど居なかった。断言できる。
興味半分遊び感覚、状況に適当に流されてなんて場合ぐらいしか女とそういう関係を持ったことは多分ない。
琉夏の中にある恋情は全てカノコに有ったと言える。
そう、あのサクラソウを摘みながら、かくれんぼを繰り返していたあの頃からだ。
「……お前の見間違いだ」
断言できると琥一は言い放った。
そんな幼馴染の態度に、カノコは最近覚えたばかりのマスカラが塗られた睫を伏せる。
「そうかな……アンネリーにね……琉夏と二人で花やさんでいっしょにバイトしてた頃にね、毎週お花を買いに来た女の人がいたの。OLさんかな…。琉夏に必ず指名が入って……、すごく親しげで……」
「アイツは誰にでもヘラヘラしてるだろ」
「……キスしてるとこ…見た事あるよ。…その人に出来て、わたしにしない…その違いって何かなって…ここんとこずっと考えてる」
「……」
それでもそれは『彼女』なんて範疇の女じゃないと言おうとして、琥一はその言葉を飲み込む。言ってしまったところで、そんな琉夏をカノコは理解してくれるだろうか?自分はともかく、この年頃の女は恋愛に潔癖症だ。琉夏からの自己申告という懺悔でもない限り、他人から風潮されたものなど、悪印象しか与えないのではないか?
ああ、だから恋愛というのは面倒くせぇ…
黙りこみポリシーのリーゼントを乱雑に掻く琥一に、カノコは何か得心したように頷く。きっと何か違う方向に理解を示そうとしているのだ。持たなくてもいい見ず知らずの女にコンプレックスを抱き、琉夏への信頼と嫉妬心の板ばさみになっているのかもしれない。それは誤解だと言ってやりたいが、琥一も言葉を知らなさ過ぎた。
「…あのよ、琉夏のこと信じてやれ。いい加減なことするヤツじゃねぇ」
フォローのつもりではない。けれどフォローにしかならない安っぽい言葉しか出てこない。琥一は今すぐにでも琉夏の首根っこを捕まえて、目の前で萎れていくカノコに土下座なりなんなりさせてやりたい気分になる。
「うん、そうだよね」
頷いて見せるが、やはりカノコは凹んでいるようだ。琥一はただ彼女の頭を乱暴に撫でてやることしか出来なかった。
幸せを望む前の苦難とは、こんなに遣る瀬無いものなのか。