ねえ、琉夏
もう、勝手にさよならなんていわないよね?
明日のふたり 失敗した。
今回は失敗した。と小波みなこはつくづく思い知らされる。
11月の風の冷たさをナメていたつもりはなかったが、厚手のセーターとジーンズにパンプス程度では、とても二十四節季の一つ、小雪にあたる夜は過ごせそうになかった。
ちょっとした上着と厚底のシューズでも有れば、風の吹きすさぶ商店街(と言ってもほぼシャッター街)をウロウロしていても耐えられたのに。暖代わりに買った缶コーヒーが、すっかり熱を奪われ温くなっていた。
ちっさなショルダーバッグには、定期の入ったパスケースと小銭入れとケータイだけ。夕方財布の出し入れをしたのが敗因だった。
みなこはもうこの通りと三回ほど往復している。
それもそろそろ限界で、何度もケータイを開いたり閉じたりを繰り返し、電話帳を表示するボタンの前で指が躊躇していた。
この商店街を抜けた先にある住宅街。
そのちょっと外れに、幼馴染で恋人の桜井琉夏が一人暮らす、小さな平屋建ての一軒屋がある。
四月の半ば連れられて見に行ったそこは、正直人が住めるのかと疑問を持たずに居られない小さなボロ家だった。琉夏が二ヶ月かけて人並みに過ごせる場所へと改装し、こじんまりとしているが、琉夏のお城はそうやって完成したのだった。
もちろんまだまだ手を加えなければならない箇所はたくさんあるが、来年一流大学進学を目指す琉夏にとって、とりあえず今はまだ、雨風しのげる場所になっていればいい、残りは受験後という意味での完成だったりもする。
そこへはここからあるいて7、8分といったところか。目前まできて、みなこは先に進めず、ブラブラともうどこもかしこも店じまいしている商店街をウロウロしていた。ケータイの液晶が22:20を表示する。
本来、みなこの家の門限を過ぎている。
「………」
しばし、ケータイを見つめていたが、ハァと息を吐き出すと、みなこはクルリと琉夏の家に背を向け、駅のある方向へと足を踏み出した。
「…みよちゃんちは…無理か…どうしよう…はばたき駅前の漫喫ならなんとかなるかな…」
「あれ?みなこ?」
ボソボソと今晩の自分をどうするか、呟いてた背中に声がかかる。
しまった。
と思うものの、パタパタと自分に近づく足音から、逃げる術もなく、みなこは内心しぶしぶ振り返った。
「うわ、マジみなこだ。どしたのこんな時間。オレに会いに来た?」
「…琉夏…なんでここに?」
サラサラの長い金髪を後ろで纏めて、どてらみたいな大きな半纏を羽織った琉夏が、コンビニのビニール袋片手に、みなこに対面する。
「夜食買いに、この商店街の裏手にあるコンビニ、おでんがうめぇの」
天使の顔(かんばせ)に乗せた笑顔は、人懐こさがあり、桜井琉夏を名うてなヤンキーだと恐れる面々でさえ、心を緩ませる効果がある。そんな笑顔を向けられて、みなこは強張っていた心が、表情が、あっという間に解けてしまった。
「琉夏ぁ~」
「おっと」
そのままポフンと厚着した胸に抱きつくと、琉夏は受け入れつつ、手にしたおでん入りビニール袋にも気を使った。
「なに?どした?みなこ熱烈でオレは大いにウェルカムだけど、いまはゆるして?おでんの汁ひっかけちゃうから、お前に」
抱き返せないや、本当ごめん。
「いい、琉夏とおでんまみれになる」
寒くてギシギシしていた体に、琉夏の体は温かかった。彼の香りとほんのりおでんの匂いがさらにみなこを温める。
「わあ、それもいいかも。なんちて。おいで、冷たいよみなこ。いつから外にいたの」
空いてる片手でポンポンとみなこの背を撫で、肩を抱くと歩く事を促される。みなこは引きづられるように琉夏のうちへと付いて行った。
「この間お掃除してあげたのに」
上がりこむと、そう広くない家の中を見回し、幾日か前に気合を入れて掃除した台所と、居間兼勉強部屋の散らかり具合に眉をひそめる。
流し台には一応洗い桶に水で浸してあるが、洗っていない食器が並々と詰まれ、居間の拾ってきたこたつには、周辺に食べ散らかしたお菓子の空袋やペットボトルが転がって、上には紙の類がこれでもかと置かれて、開いているノートのスペース分だけで勉強していたとうかがえた。
「またお前に掃除して貰いたくて」
食台におでんを置くと琉夏はそう言いながら、後ろからみなこを抱きしめる。
「もうっ調子の良い事言って…」
ムッと怒ったような顔と声をしてみるも、彼に耳元をキスされて頬が赤くなる。
「…おでん、食べないの?」
さっきまで慰めるように自分の肩を撫でていた琉夏の手が、セーターの裾から肌に触れようと忍び込み、不埒な動きをする。
「後で温めなおして、いっしょに食べよ?今はお前温めたい」
耳朶を食まれて、ピクンと体が跳ねる。
「琉夏」
甘えた声で体を捩じると、その首に抱きつきながら、唇を彼のそれに押し付けた。
啄ばむ口付けに、小さなリップノイズ。冷えた身体に彼の掌は熱くなぞっていく。
背中のブラのホックが軽く弾けた。
「あ…」
セーターの下、両手が下から掬い上げるみたいに両胸をゆるゆる揉み上げられる。
「ん…ふぅん…」
体温が上がっていく。指先がじんじんと熱を持ち、舌を重ねながら琉夏の髪をくしゃくしゃと撫でた。
胸の先端、赤い実を親指が転がし、時折すり潰すみたいにされて、喉を仰け反って金の頭を抱えた。
「あぁ……んふ…琉夏ぁ…」
導かれた唇が、片方を咥えて、今度は舌先で弄られる。もっとと強請るみたいに反った身体を返し、覆うみたいに彼に抱きつく。
「気持ちい?」
「…ん……もっと…して?」
「……」
「…?琉夏?」
ふいに動きを止めた琉夏を訝るが、その表情を覗き込もうとして、巻きついていた腕を緩めたところで抱き上げられた。
「ひゃっ…え?琉夏?」
「ベッド行こう」
「…うん」
「……」
了承したのに琉夏は動かない。
「…なに?琉夏どしたの?」
「しまった…」
「へ?」
「おでんといっしょに買ってくんの忘れた」
「え?なんの話?」
眉をひそめるみなこに、負けじと相手も難しい顔をしながら、彼女の肩に顔を寄せる。
「失敗だ、前回やりすぎたかな…」
「…琉夏、話が見えない」
彼の思考回路は時々ななめに繋がったり、反り返ったり。
「うん、この間さ、ヤッた時…情を深めた時?愛し合う…うむ…セッ…」
「わかったから、そこは詳しくなくていいよ、ばか。で?その時なに」
「使い終わった。ゴムがねコンド…」
「わかった」
ついでにアケスケである言動に、ブレーキとばかりに言葉を被せる。
「…ないの?」
「うん、明日給料日だから…」
「買いにいけない?」
財布の中身が乏しいのは、今のみなこも同じだった。
「…ちぇっ、残念。お前珍しくノリノリだったのに」
「……」
チュッと音を立てて、彼女のこめかみに口付けを落とすと、参考書やプリントが散らばるこたつの上に、そっと腰掛けさせるように下ろした。
離れていく琉夏の体を惜しみ、半纏の裾を掴む。
「…いいよ?」
「ん?」
「ナシでしようよ」
「………」
「止めないで?」
上目勝ちに彼を見て、小首を傾げれば、「いい」と言って抱きついてくる。
そう予想したのに、彼はみなこの目の前に屈んだ。こたつに腰を下ろす相手を見上げ返す。
「?」
「しまった。あー…。お前見て我を忘れた?っていうのか。思わず連れ込んだ。失敗」
「え?」
「ん、あそこでお前見た瞬間、色々考えたんだ。なんでこんなとこに居るんだろう、もしかしてオレを頼ってきたのかなって」
「頼るって…」
「あれ?淋しそうな背中してた。ちがった?」
「……」
ゆっくり彼女の両手を取ると、指で優しく撫でる。先ほどとは違い、それは慈しむような触れ方だった。
「オレを頼ってくれて嬉しいなぁ。でも、なんであそこでウロウロしてるのかな、なんでオレんとこ来ないのなか……ああ、きっとみなこの困ってることの何かが、…オレに関係してるんだな…って」
「!っち…違うの、琉夏!」
「…ん」
頷きながら細く笑む彼。それはみなこの否定を鵜呑みにしたものではない。彼女の心見透かした上で、理解を示したのだ。みなこは泣きそうになってそのまま抱きついた。
「違うの、全然違うんだから」
「うん」
「………」
「よしよし」
髪を優しく撫で、背を抱きしめて、耳元にキスを落とす。
彼の優しい行為に、みなこは観念した。
「……お父さんに、『琉夏と今すぐ暮らしたい』って言ったの」
「うん」
「でも、ダメだって…。私はまだ子供で、琉夏にも色々あるからって…」
「…そっか…」
「ずっとずっと琉夏の傍で居たいって、いっしょに暮らしたいって思ってて、受験なのにバイト抱えてる琉夏を私は支えたいだけなのに……」
そこまで声を震わせながら呟いていたが、耐え切れなくなりワッと泣き出す。
「ありがとう、みなこ」
みなこが落ち着くまで、琉夏は黙ってただ身体や頭を撫で、時折キスを与えて、機を見てそう呟いた。
「このまま、ここで暮らしたい。ここにいていい?」
すんっとしゃくり上げながら、強請るみなこに青年は小さく苦笑した。
「やばい、お前にそんな風に誘惑されたらオレイチコロ」
「誘惑なんてしてない」
プッと頬を膨らます彼女は、先ほどの濃厚な触れ合いが嘘みたいな幼さがある。しかしそれさえ、琉夏にとっては想いを深くする誘いでしかない。
「誘惑だよ、だから勘弁して。これでも精一杯我慢中」
「……我慢しないでよ」
「……いっしょに暮らしたい」
「琉夏、私も」
「だから今夜泊められない」
「なんで…」
ゆっくり体を離し、もう一度髪を撫でる彼の表情はとても優しく、トゲトゲと尖がるみなこの心を癒す。
「オレもみなこと暮らしたい。けど、それを誰にも反対されたくない。ん?ちょっと違うな、う~ん…そうだな、二人で頑張って、それでも認められないならみなこ攫ってでも、ここに連れ帰るけど、まだ二人で何もしてないだろ」
「……」
「今度、みなこのお父さんに時間取って貰おう。オレ挨拶しにいく」
青年の言葉に、不安げな瞳を向ける。
「大丈夫、ちゃんと俺たちのことわかって貰おう?ダメだって言われるなら、その理由を理解できるまで教えてもらう」
「出来るかな…」
「出来るよ、みなこが言ったんだろ?」
「?」
「オレに幸せになっていいって…。いろんな人にみなことのこと認められて二人で暮らせたら、オレ幸せ絶頂だよ?」
破顔する彼の表情に出会ったばかりの頃、付きまとっていた儚さや翳ったものはなく、そんな表情を自分に見せてくれることが、たまらなく嬉しかった。
「……琉夏…ずっと傍に居てくれる?」
「居る、居させて?」
暫く止まっていた涙が、再び瞳に盛り上がってくる。
ずっとみなこの心にある不安。
今日よりずっとずっと寒いあの日、琥一から連絡を受けて事故った琉夏が運ばれた病院に、駆けつけた夜の匂いが未だ鮮明に思い出せる。
『さよならジュリエット』
事故を起こす直前、彼の出していた信号に気付きもしなかった自分がどうしようもなく呪わしかった。
重症を負い、夢うつつに幼い頃の思い出に帰りたがる琉夏に、呆然とした。
淡く笑ったり、死を軽視した行動を取ったり、そんな彼にやきもきしていたクセに、何も出来なかった自分。
なにげなく「いっしょに暮らさない?」と言われた時、傍でいれば、自分が彼の帰れる場所になるだろうか?とずっと自問自答していた。
ぼっとしていては琉夏がまたどこかへフラリと姿を消してしまうかも…と、不安に駆られて焦っていたのかもしれない。
「もう…さよならなんて言わない?」
「言わない。お前も…オレを置いて行かないんだろ?」
声で返事が出来なくて、大きく首を縦に振って答えた。
「よし、じゃあこれ以上遅くならないうちにお前送ってく」
「いいの?」
「うん、挨拶しなきゃいけないようならその場でとりあえずするけど、正式なのは日を改めて?」
「……なんか……」
「ん?」
「ううん」
結婚の申し込みみたい…という言葉は気恥ずかしくて飲み込んだ。
いつかそうなる予行演習だったら、どんなに幸せだろう。
なんてみなこは一人笑んだ。
無料のタクシー配送、と言ってケータイで琥一呼びつけた。そんな琉夏と二人あのやたらデッカめの外車が入れる通りまで出て、暖めなおしたおでんを食べながら迎えを待つ。
「……強くなったね、琉夏…」
「うん、オレヒーローだからね」
片手でおでんを食べながら、もう片方はしっかり手を繋いでいた。
「…うん、わたしも…強くなるよ」
いつの間にか強くなっていた自分だけのヒーローに、負けていられない。
「いいね。でも、お前を守るのはオレだから」
握った手に互いが力を込める。
ついさっきこの先の商店街で、寒さと遣る瀬無さに堂々巡りしていたのが嘘みたいだ。
明日に絶望さえしていたのに、今はただ未来が輝いて見える。
くすぐったい胸のうちをぶつけたくて、背伸びして琉夏の頬にキスをした。すると琉夏もじゃれる様に鼻先や額に口付けてくる。
二人してそれを繰り返しているうちに、唇同士が出会い、恋人同士のキスを始めた。
迎えにきた琥一の車の、ヘッドライトが二人を照らすまで続けていたら、夜中にも関わらず、抗議のクラクションを鳴らされたのだった。
END